デヴィッド・ボウムのことば
久しぶりにD.ボウムの「ダイアローグ(On Dialogue)-対立から共生へ、議論から対話へ」を読み直したところです。去る12月5日、上智大で開催された、「食と農のシンポジウム」でアフリカ代表二人の問題提起を聴きました。福島へのJourneyに続き、心の錘が加重される中で、ボウムから一つの示唆を得たので、共有したいと思います。
「・・・人が自分の「問題」だとか、社会的な「問題」であるとか考える思考プロセスそのものが、考えた内容によって条件づけられ、コントロールされているのだ。・・・こうした思考は自由ではなく、実際には正直なものですらないと思われる。そのため、もとめられているのは深遠で真剣なアウェアネスである。・・・混乱した思考プロセスを知的に分析し、また、混乱が生まれる原因となった、矛盾する前提や心の状態を見抜く能力を備えたものだ。そのようなアウェアネスがあれば、パラドックスの多くを理解する用意はできたことになる。こうしたパラドックスは日常生活や、もっと規模の大きい社会的関係において姿を現し、やがては一人ひとりの「最も深い部分にある自己」を構成していると思われる、思考や感情の中にも現れるだろう。」
自分の周辺、或いは外界の問題に意識を向けて(Inside Out)嘆きや怒りで反応するだけでは、そこに別種の問題が外在する。それは混乱した思考のせいである。混乱や矛盾する前提、心のあり様を見抜く、内に向いた力(気づき)が深まって、問題という認識のパラドックスを理解する準備ができる。Outside Inのダイナミックスこそ「気づき」に繋がると自己理解する。一人一人の気づきなくして、真の意味での解決はありえない点は言うまでもない。もっとボウムを研究して、確信したい。
こうがみちこ