防災訓練で思うー市民意識は育っているか
去る9月4日には代々木公園での防災訓練に参加しましたが、殆どが高齢者。若者不在では、市民の安全は保障できないという危機感を覚えたほどです。渋谷では、今年からやり方を変え、結構、エンターテインメントの要素などをちりばめて、若い層の関心を呼ぼうと努めたようですが、その希望的観測はどこまで達せられたか、レヴューできる仕組みも要るでしょう。
市民ということばは、21世紀の今も日本ではしっかり根付いていません。市民広場とか市民病院など都合よいネーミングはいろいろですが、果たして住民、市民、公民、国民の違いは何か問われると余りはっきりしません。市民とはあくまで公権力に対して自律的な大義で動く一般人や団体所属の人と定義できるでしょう。NGO,NPOをはじめ自分たちの安全、安心を守ろうとする市民団体、グループがそれです。主義主張をもって社会の理解に訴え、市民社会の健全な機能化と活性化を働きかけていますが、その力が発揮されているのは、子供支援、老齢者介護、食・住まいの安全などごく身近かな分野が中心で、それも、活動維持と社会認知のために、概して、公的機関に取り込まれ易い問題があります。尤も、NGOで世界の危険区域の保全や生命救助、貧困撲滅などと闘うのも民間団体ですが、正義という面で国や然るべき公的機関の支援協力を得られ易いメリットはあります。
ことば・こころ塾の一活動「友カフェ」は、住民、市民のための対話の場(合意形成や意識づけ)と学びの場という大義名分(ミッション)がありますが、まる7年へて、参加者にどの程度の影響があったのか図りようはありません。ただ、意識の高い方々が興味をもつ傾向ははっきりしています。おそらく、自身の生活向上、周辺地域、社会への目配り、気配りができ、時に心をいため、必要に応じて、行動に起こしている方々だと確信しています。
現在、日本は言論に自由、諸々の機会の平等が約束された民主社会と一般に思われているようです。民主主義の浸透については議論の余地は大いにありますが、概ね、重圧感、危機感はあまり感じられず、何とか生活はできています。ただ、平穏になれると、これでいいのか、何かおかしいのではという振り返りや直感を働かせることがマヒすることにもなります。自分で責任をとれず、人頼みにする結果、ポピュリズム政治がはびこります。アメリカ大統領選でのトランプの支持層、欧州での難民排斥を訴えて支持を伸ばしている右派はそれです。自分たちの足元だけに関心を向ける傾向こそ危険です。日本にも、弱者への偏見、ヘイト、いじめなどその気配がみられるようになっています。
日本では安全保障法制可決阻止を旗印に立ち上がった若者集団シールズに希望を見ようとしました。彼らがさっさと解散した理由は、自分たちが変革を起こす力になろうとは思わない、何かを変えるのは市民一人ひとりの力の結集だといった言葉を残しています。確かに、自分は立ち上がらず、どこか人頼みでうまくいけばと願うのも一般市民です。60年安保のような胎動は起こりそうにありません。が、やはり、公正な社会ウォッチャーとして、直感力をはじめ、見方も対応の仕方も研ぎ澄ましておくのが、せめてもの市民の姿勢だと思う今日この頃です。了
日本では安全保障法制可決阻止を旗印に立ち上がった若者集団シールズに希望を見ようとしました。彼らがさっさと解散した理由は、自分たちが変革を起こす力になろうとは思わない、何かを変えるのは市民一人ひとりの力の結集だといった言葉を残しています。確かに、自分は立ち上がらず、どこか人頼みでうまくいけばと願うのも一般市民です。60年安保のような胎動は起こりそうにありません。が、やはり、公正な社会ウォッチャーとして、直感力をはじめ、見方も対応の仕方も研ぎ澄ましておくのが、せめてもの市民の姿勢だと思う今日この頃です。